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日本橋電気屋物語
第13話 「サワダデンキ」
2008.04.24
 昨年、永和信用金庫本店のショーウインドウ内に掲示されたパネルの「澤田社長のパネル」が入手出来ましたので掲載します。
2007.08.14
 ネタに困って「サ ワダデンキ」なのです。まあ、何話目に登場さそうかと悩んでいたのですが、結構早かったのです。此処に載せたい方は自分で書いて持って 来て頂くとすっごく在り難いのですけどね。私の父、創業者の澤田正治郎は明治42年の生まれなのです。3歳の時にポリオ(小児麻痺)にかかり右足が不自由 になり松葉杖のお世話になるのです。其れでも今宮中学校(現在の今宮高等学校)在学中はキャンプに自作のラジオを持って行ってアンテナを張って聞いたり、 と活発に活動していたので す。小学校は私と同じ大阪市立日本橋小学校だったのです。明治5年 南区第二大区十三 番小学校として開設された由 緒有る小学校なのです。当時は堺筋に面した現在の「高島屋 東別館」の位 置に在ったとか、大正8年「松坂屋」の建設の為「曳屋」で現在地(高島屋東別館の東裏)に移転したのです。児童数も戦前に最大だった頃は1600人を超え ていたのです。私が通っていた頃で600人ほど、我が家の長男・次男の時代で160人ぐらいだったのですが、現在では50名を切り、大阪市内の小学校では 金メダルに輝いているのです。そうなんです、一番児童数が少ない小学校になってしまったのです。


表から見たところ
店頭と優秀なスタッフ
 
 正治郎は学校を卒 業して、何をしようかと迷ったのです。家 業は「澤田諸油店」と言う三代続いた油屋だったのです。椿油から天婦羅油、ガソリンまで取り扱っていたのです。現に今のビルを建てる時、基礎の為土を掘り 返している と大きな瓶(かめ)が出て来たのです。私が「大判、小判や。」とはしゃいでいると「あほ、そりゃ油の瓶や。」と正治郎は言ったのです。古い真っ赤な鉄の塊 と言うか、何やろ?て聞くと、戦時中にガソリンの配給もしていたとかで、其の時使っていたガソリン用のポンプやと言うのです。まあ、油屋のなごりは有った のです。えっ!「お前、油売るのん上手いやんけ。」てでっか、ほっといてくれ!そんな訳で、油の瓶を大八車に乗 せて配達もしなければならないのです。足の不自由な正治郎には油屋を営むのは無理だったのです。其処で考えたのが座って出来る仕事、最終的に二つの案が浮 上したのです。一つは時計屋なのです。ところが此れを出来ない理由が見つかったのです。あの、目に嵌めるルーペがどうしても上手く留まらないのです。いく らやっても目からポロポロ落ちるのです。其処でこれを断念、もう一つがラジオ屋なのです。元々好きでやってたラジオ作りをしようと思ったのです。始め、住 み込みでラジオ製作所へ勤めたのですが、三日で尻を割ったのです。理由はおかずに出て来たお多福豆なのです。正治郎は此れが大の苦手だったのです。そんな 訳で家でラジオの製作を始めたのです。そして結婚を機に横町(今のAM/PM 日本橋4丁目店辺り)に「澤田ラジオ店」の看板を出したのです。昭和10年 の事だったのです。ラジオの製造販売から部品の販売もする様になったのです。アイロンなんてのも売ってたんでしょうねえ。其れが大阪大空襲ですっかり丸焼 けになってしまったのです。勿論、実家の方もね。其の頃私はと言えば、未だ影も形も無かったのです。私は生まれも仕込みも戦後、昭和21年11月の 生まれなのです。


袋物と爪きり
デジカメ、ムービー等

 当時、母と兄、姉 は和歌山県伊都郡(現在の橋本市)に在る母の実家に避難していたのです。いえ、私は未だ生まれて無かったのです。昭和20年8月15日終戦、正治郎は9月 には既に焼け 跡に中古のオンボロバスを置いて商売を始めたのです。電気メーカーまでリュックを背負い、松葉杖を突いて仕入れに行ったのです。物が有れば何でも売れたの です。親戚が美章園に長屋を持っていて、其の一軒に住まいしたのです。どうやら私は其処で生まれたらしいのです。いえ、本人は知らないのですけどね。物心 付いた頃に覚えているのは真空管なんてのを売っていた事なのです。木造のバラックで屋根はへぎで葺いていたのです。トントンとも言われる木の折詰の蓋の様 なものが瓦の代わりに使われていたのです。勿論、平屋なのです。裏に母屋が在ってこれも平屋だったのですが、後に二階建てにしたのです。平屋の上に建て増 したのでは無く、二階用に別に柱を立てたのです。ですから、極端に言えば一階が倒れても二階は残るのだそうです。店の方なんですが、17坪ほど有って其処 を6つ程に区切って正治郎は表の北側を取り、残りの5つを貸したのです。今風に格好良く言えば「テナントビル」なのです。正治郎の経営するのは「澤田電気 商会」なのですが、其の「テナントビル」全体の屋号として「ラジオセンター」を名乗ったのです。アイデアの元は東京の秋葉原だったのです。当時、秋葉原に はそんな感じのお店が既に有ったのです。


海外向け電子ジャー炊飯器
海外向けシェーバー

 「ラジオセン ター」のテナントの一つに現在も有る「東亜無線」が支店を出していて、其処の店長だったのが、既に引 退したのですが先の「東亜音響」の社長だった吉田信次郎で、私が小学校低学年の頃だったのです。色々教育指導を頂戴したものでした。入口の南側に有った店 は「日本橋無線商会」だったと記憶しているのです。水野と言う大和町にお住まいだった方が経営者だったのです。三菱電機の代理店をしていて、随分と羽振り が良かったのです。当時の夏の風物詩は扇風機、此れが飛ぶように売れたのです。現在も当社に出入りする「イエオカデンキ」の社長も当時其処にお勤めだった のです。一時など、お客さんが一台しか無い扇風機を取り合いし、オークション風にお客様が値を吊り上げた事も有ったとか。「光無線」と言うテナントも有っ たのです。現在の「光無線」では無く、照明器具の専門店だったと記憶しているのです。後に其処が「光照明」と屋号を変えたのです。正治郎が言うには「“こ うしょうめい“なんて名前より”ひかりむせん”の方がよっぽどええのに。」とか言っていたのです。ほんまの読み方は「ひかりしょうめい」なんですけどね。


こけしに日本刀
セラミック包丁

 其の頃に正治郎の母方の従兄弟が丁稚奉公に来たのです。笠谷隆史で中学を出て直ぐの事なのです。住み込みで、家から夜間の高校へ卒業まで通っていらした ので す。私より11歳上で昭和10年の生まれなのです。吉田信次郎は昭和11年1月の生まれで、二人は良く一緒に「日本橋無線」や「光無線」の連中共々夜遊び をしていたのです。勿論、私のご幼少の砌(みぎり)の事、詳しくは知らないのですけどね。覚えているのは私が未だ中学生の頃、宴会に引っ張り出され、酒を 飲まされ、 二日酔いで学校を休んだとか、微かな記憶が有るのです。当時の「澤田電気商会」は部品から次第に照明器具の販売へと向かうのです。まあ、長くなるので続き はまたの機会に譲るのです。合掌。



変圧器
社長の澤田沢治

サワダデンキ
大阪市浪速区日本橋4-10-1
営業時間:11:00〜19:00
定休日:木曜
電話番号:06-6643-1414



 このコーナー、今回で終わるかも知れないのですけど、まあ 何処か掲載をご希望のお方はsawada@osk.3web.ne.jp までメール下さい。一応、週に一度の連載を予定しているのですが、予定はあくまでも予定なんです。出来れば自分で書いて写真も載せて編集して、が在り難い のですけどね。
澤田沢治
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